いい曲は、作った人と関係あるのか?

Buchla Music Easelを買いました。
(金額にビビりながら)

練習のために、同じEaselを使っているアーティストの音楽を聴き込もうと思って、一人ひとりのことを調べていたときのことです。

大好きな音を出す、charlies cohenというアーティストがいるのですが、少年への性的暴行により逮捕されてしまい、そのまま監獄で亡くなった、という事実があったことを知りました。

susuman

それは絶対ダメなこと。
でも…曲はいいんです。

私の中ですごくモヤモヤしてしまいました。

その情報を知ったら、じゃあ、自分の中でもういい曲じゃなくなるの?

そんな問いが、ふっと生まれました。

作品に罪はない?曲は、生まれた瞬間に別の個体になる

私が最初に思ったのは、こうでした。

曲は、もうこの世に生まれた、別の個体だから関係ない。

親が罪を犯したら、子どもも罪人になるのか?
答えは、否だと思います。

それと同じで、作った人と、生まれた曲は、別の存在なんじゃないか。

「作品に罪はない」という言葉にも近い感覚です。

黒猫が楽譜や楽器の周りに座り、作品と作者の関係を静かに見つめている様子

作者の死ってなに?

文学の世界には、「作者の死」という考え方があります。

フランスの批評家ロラン・バルトが1967年に唱えたもので、作品の意味を決めるのは作者ではなく、読む人だ、という考え方です。

susuman

作品は、生まれた瞬間に作者の手を離れる。

そこから先は、受け取った人の中で、それぞれの意味を持つ。

曲も同じで、聴く人の耳に届いたとき、その曲はもう作った人だけのものではない、と言えます。

聴く・応援する・勧めるは、別の行為

ただ、考えていくうちに、もう一つ気づいたことがあります。

「曲をいいと感じること」
「その人を応援すること」
「人に推す」


は、全て別の行為として分けて考えた方がいいと思います。

  • 聴く
    自分の中で完結する。
    曲をいいと感じるのは、自分だけの体験。
  • 応援する
    これも、まだ自分の中だけでの完結です。
    再生やお金が、作った人や関係者に届くこともある。
  • 人に推す
    ある意味自分のアイデンティティの一部として、他者にその人を知らしめることになります。

この3つを分けて考えると、少し楽になります。

黒猫がレコードプレーヤーの前で音楽に耳を傾けている様子。聴くことと応援することの違いを表現


曲をいいと思う自分を責める必要はないし、一方で、推すどうかは、別に考えていい。

私もCoen氏を別に推してるわけではないし。
曲は好きです。

作り手のスキャンダルを理由に、作品ごと支持をやめようとする動きは、「キャンセルカルチャー」とも呼ばれます。

susuman

それが正しいかどうかは、人によって考えが分かれるところです。

ただ、「聴く」・「応援する」・「推す」を分けてみると。

自分はどこまでなら受け入れられて、どこからは無理なのか。

自分とそのアーティストとの距離感が測れるヒントになると思います。

推すこととは、推しの名札をつけること

特に昨今よく耳にする「推す」は、他の2つと少し性質が違います。

いわゆる「推し」を人に勧めることには、推しと自己の同一化みたいなところがあると思うんです。
自分自身に取り付ける、ハッシュタグや、記号、ステッカーのようなもの。

この人が好き!と表明することで、推しの皮をかぶる、というか。

社会学者のブルデューは、「趣味は、その趣味を持つ人自身を分類する」と言いました。

アイドル好きなら、「ドルヲタ」。
アニメが好きなら「アニヲタ」。
電車を撮るのが好きなら「撮り鉄」。
乗るのが好きなら「乗り鉄」。

何を好きかは、ただの好みじゃなくて、「私はこういう人です」という名札として、周りから読まれてしまう。
という説です。

だから、「そういう人の音楽が好きなあなたのことも、どうかと思う」という反応が生まれるんですよね。

夜の窓辺に佇む黒猫が遠くの街を眺めている。出来事との距離と心の余白を表現

推しが名札になると、推しが褒められると自分も褒められた気がする。
推しが叩かれると自分も叩かれた気がする。
推しを守ることが、自分を守ることになる。

susuman

こうなるともう音楽の話じゃなくて、どっちの側に立つかの話で、まるで政治的な対立みたいです。

日本ではあまり、政治的な対立が一般市民の中で起こることは賑やかな方ではないので、ある意味エンタメで派手に起こるのはちょっと不思議だけど。

切り離せるかどうかは、出来事との距離で変わる

じゃあ、作品と人は、いつでも切り離せるのか。

私の答えは、「自分がその出来事とどれくらい近いかによる」です。

たとえば、ジャニー喜多川さんの性加害が明らかになったとき、じゃあジャニーズの曲を急に嫌いになるのかと言われたら、私は違いました。

そもそも曲を作ったのは、作詞家や作曲家、そして歌ったタレントたちです。
しかもその中には、被害を受けた側の人たちもいる。

1曲には、加害者以外のたくさんの人の手が関わっています。

槇原敬之さんが薬物で逮捕されたときも、じゃあマッキーの曲はダメなのか?というと、それも違うと思いました。

でも、自分が実際にその相手に傷つけられている場合は、さすがに無理です。

スポットライトの中で正面を向いて座る黒猫。あなたはどう思う?という問いかけを象徴する

私も若かりし頃、曲が好きで大好きになったアーティストがいました。
若気の至りでプライベートな関係を持ってしまいましたが、その後の結末は最悪なもの。

もう二度とその人の曲を聴けなくなりました。

「近づかなければ、今でも曲を純粋に愛せたのに」

やっぱり曲の方は、私の中では愛すべき存在なんでしょうね。
だから、悲しいし、自分の行動に悔しさを覚えます。

アーティストの不祥事が自分と遠い出来事なら、ただの情報として受け取れる。
だから曲は曲として切り離せる。

でも、自分が傷つけられた出来事は、被害者とリンクしてしまいますよね。
そうすると、それはもう単なる情報じゃなくて、被害者への共感が生まれて自分事化してしまう。

susuman

その事件に実際に傷ついた人がいるかどうかも大きいと思います。

薬物で実際に傷つくのは、本人自身の健康です。
でも暴力や性加害には、はっきりと傷つけられた相手がいますからね。

不祥事の性質によっても、その出来事と自分の距離感の揺れ方は変わるかなと思います。

推す人も、嫌悪する人も、誰かに自分を重ねている

ここまで考えて、たどり着いたのはこれです。

嫌悪感の強さは、被害者に自分がどれくらい共感したか、同一視できてしまうかで変わる。

たとえば私は、性的なことに強い嫌悪感があります。
だから、傷つけられた人が自分に近い存在だと想像すると、一気に他人事じゃなくなって、見え方が変わってしまう。

理屈より先に、体が「気持ち悪い」と拒否する感覚です。

そうすると、ちょっと曲は聴けなくなっちゃう、かも。
そうなったことはないから分かりませんが。

でも曲を聴くたびにそのことが頭にチラつくのは嫌だから、聴かなくなっちゃうかもしれません。
それは、やっぱり悲しいな。

心と体で別の動きをしているから。

黒猫が楽譜や楽器の周りに座り、作品と作者の関係を静かに見つめている様子

そして、これは「推し」の話とリンクします。

  • 推す人は、作り手に自分を重ねている
  • 嫌悪する人は、傷ついた人に自分を重ねている

どちらも「誰に自分を重ねるか」という同じ心の動きです。

重ねる相手が違うだけ。

susuman

だから、ファンと批判する人がぶつかると、どちらもお互いが自分自身を守り合っているのかなと思います。

同じ出来事をどう捉えるかで、ある意味、映し鏡のように、自分のスタンスが分かるんですよね。

アーティストが先か、曲が先か

もう一つ、気になったことがあります。

私たちは、アーティストを先に好きになるのか。
曲を先に好きになるのか。

これは、卵とニワトリみたいな問いです。

  • 曲が先
    たまたま耳にした曲が好きで、そこから作った人に興味が向く。
    まず曲そのものへの愛があるので、後から人の背景を知っても、曲は曲として分けて残りやすい。
  • 人が先
    人柄や生き方、バックボーンに惹かれて、その人の曲を聴くようになる。
    曲は「その人の一部」として好きになっている。
    そのため、人への気持ちが揺らぐと、曲に対する感情まで一緒に揺らぎやすい。

でも、曲から人を知って、人を知ると曲の聴こえ方が変わって、また人を知りたくなる。
こんな風にグルグルすることもあります。

私も、「推し」と言えるほど好きなアーティストに対しては、グルグルしながらどんどん好きになっていく感覚があります。

いい音とは?の記事で、那須科学歴史館の先生が、背景を調べたらビリー・ホリデイが好きになったと話していたのは、まさにこの循環です。

susuman

背景を知って、より好きになることもあれば、聴こえ方が変わってしまうこともある。

そのどちらも、きっと本当なんだと思います。

私の今の答え

好きなアーティストのCDやレコードが置かれたテーブルで、人の手がCDジャケットを手に取り、黒猫が座っている様子

アーティストに不祥事があったときに、作品と人を切り離せるかどうかは、作品で決まるのではなく。
聴く人が、誰に自分を重ねるかで決まる。

だから、同じ曲でも、聴ける人と聴けない人がいて当然です。
どちらが正しいわけでもない。

そして、曲をいいと感じることと、人に勧めることは、別に考えていい。

今の私は、Buchla Music Easelの音を学ぶために、Coen氏の音を聴くことは、学びになりますし、大切にしたいと思っています。

でも、「おすすめ」として名札をつけるかという距離感ではありません。

あなたは、どう思う?

好きな曲の作り手に、受け入れがたい事実があったと知ったとき。

あなたは、その曲を聴き続けられますか?

もし聴けるなら、聴けないなら、それはあなたが、誰に自分を重ねているからでしょうか。

となりのTOI